内藤正成
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渡邉守綱が徳川軍の槍マスターだとしたらこの人は弓マスター。

内藤家は弓の名手が多いですが、この人の強弓伝説はその人々の中でも特に飛びぬけています。
1542年、織田軍との戦いの最中のこと。
奇襲をかけてきた織田軍を、正成は弓でさんざんに射殺しました。
ひるんだ敵は敗走し、200余人の死傷者を出したといいます。
…何と16歳の若者の弓が戦況を変えてしまったのです。
槍の腕も一流で、家康はいつも彼を「軍神四郎左衛門(←四郎左衛門は正成の通称)」と呼んでいたそうです。

生涯における彼の弓の名手っぷりはここではいちいち書きませんが(気になる人は検索してみてください)、彼はその豪胆さ頑固さにおいても筋金入り、主君のためなら火も水も厭わぬ、昔気質の三河者でした。

一向一揆の時、正成の舅は一揆方の大将でしたが
今回の戦は主君のため。相手が舅だろうと顧みていられようか。
と、正成は迷わずその両膝を射抜きました。その傷がもとで舅は絶命したそうです。
(なお、この時同時に渡邉守綱の父高綱も射殺したとする本もある。舅=渡邉高綱だとする本もある)

小田原の役の時、その勇名を聞いた秀吉が対面を望みましたが、正成は老年だからとこれを拒否(たぶん秀吉のことがきらいだったのでしょう)、生涯秀吉に謁見することはなかったそうです。

家康の関東移封後5000石を与えられましたが、大して功績のない者たちが自分と同じ石高だと知って激怒。領地に引きこもり出家、善想と号しました。
味方にすれば頼もしいですが、扱いにくいことこの上ないじいさんであります^^;。
慶長7年4月12日72歳で没。


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