青山忠成内藤清成
※ 名前をクリックすると↑wikiの人物解説が出ます。

「徳川幕客の双生児」とも称せられる能吏二人(歳は青山が4歳上)。

ともに三河譜代出身で秀忠の守役、一緒に関東総奉行を務め、同じ事件で同時に失脚しました。

この二人の名前は三河人なら覚えておいて損はないです。

東京の「青山通り」で有名な「青山」はこの青山忠成の所領、

新宿区は内藤清成が家康にもらった広大な所領(昔は新宿のことを「内藤新宿」といった)

がそのはじまりとなっています。


◆青山忠成◆
岡崎市百々町(どうどうちょう)出身。家康からの信頼厚く、秀忠の守役を経て関東総奉行、老中に。
しかし1606年、同僚の内藤清成とともに「鷹狩事件※」に巻き込まれて失脚。
上司本多正信の取りなしにより復帰。1613年63歳で没。

◆内藤清成◆
系図上はあの内藤正成の甥っ子だが実は養子。
家康の小姓から秀忠の守役に抜擢され、家康の関東移封で現在の新宿に広大な土地を拝領する。

現在でも「内藤町」「百人町」(清成配下の鉄砲組「大久保組」組屋敷跡)などの地名に名残が残り、新宿御苑は内藤家の江戸藩邸址になります。
そして1606年、同僚の青山忠成と同じ事件※で失脚。
政治の表舞台からは遠ざかってしまいます。1608年54歳で没。


※鷹狩り事件…家康の鷹場(一般人は狩猟禁止区域)に現地の民が勝手に罠を仕掛けていたのが見つかり、彼らが「青山、内藤に許可をもらった」と話したことから将軍秀忠が二人を勘当。本多正信らの取りなしによって切腹は免れる。
この事件は二人の上司本多正信の陰謀だったとする説や、大久保忠隣、本多忠勝ら武功派による近従派(青山・清成)の追いおとしと見る説もある。





  次へ